3層の存在

シータヒーリングではこの現実世界のことを3層、いわゆる霊界のことを4層と呼ぶ。両者を隔てているのは「死」だ。
3層は肉体を持ち、4層は肉体を脱いだあとの世界、肉体のない世界である。

しかし、3層と4層について意識を向けていくと、実はそれほど大きな差はないのではないかと思えてくる。

肉体の有無も厳密に考えると、あいまいになってくる。

そもそも、物質と非物質の区別だって怪しい。
どちらもその根源を突き詰めてみればエネルギーであることに変わりはない。

3層(この世界)の物質を細かく細かくかみ砕いていけば、原子になり量子になり、結局はエネルギーのバイブレーションに行きつく。そのバイブレーションはもはや目に見える物質ではない。

4層でも根源はエネルギーであることに変わりない。
3層も4層もどちらも突き詰めればエネルギー。
その違いは、単にバイブレーションの違い。
別の表現で言うならエネルギーの「濃さ」・・・密度の違いだけなのだ。

濃さの違いとは、なんというあいまいな違いだろう。
グラデーションのように、濃い部分とうすい部分がある・・・ということは中間的なものだってあるはずなのだ。

言い換えれば3層のような4層のような中間的なエネルギー状態。
「物質」でありながら「非物質」的な状態。

これって、例えば固いハズのスプーンがぐんにゃりしちゃった!なんていう状態なのではないか。
遠く離れている場所の様子が、なんとなくわかっちゃうという状態も中間的な状態なんじゃないだろうか。

3層のルールから逸脱した状態。
3層のルールの中から見たら、信じられないようなことだけれど、
グラデーションの世界観からしたら、それほど不思議なことではないのかも。

私は元々「3層のルール以外は怪しすぎて信じません!」という価値観を持っていたので、このルールを逸脱すると、いまだにいちいち驚く、、というか感動する。

あぁ!ホントにこういう世界があるんだ!

といちいち確認する(笑)
そうやって、自分の眠っていた意識を起こしてきたような気がする。

愛犬むぎの死を通して、4層の世界のことをたくさん学んだ。
今まで感じていた4層のイメージ「修行」「自己犠牲」「重苦しい感じ」といった見方ではなくて、
(きっと、これは4層のチェックリストからの影響だ!)
もっとシンプルに肉体を脱いだあとの世界
として見れるようになった。

4層でも住人たちは、4層としての学びや体験をしている。
その様子は基本的に3層の私たちと変わりないが、大きなテーマが違うのだろうな。
物質的なことや肉体についてなど、まさに「物質」についての学びというより、
非物質的なこと、たとえば、気持ちや思考、感情、霊的なことなどについて
深める場なのではないかな・・・と思う。

3層でクリアしきれなかったことを、4層で学び直すこともしているように感じる。

なんだ。3層とそれほど変わらないじゃないか!
という感覚は、私の中の3層と4層の間にあった壁を薄くした。

元々、「死」を身近に体験してきた私は
今回のこの3層での人生のテーマのひとつとして、
「死」についての理解…というか観方を深める、場合によっては伝えたり、関わっていくのだろうなと感じている。

チベットの『死者の書』に代表する死生観も、どこかで知っている気がするし、
チベット僧のいで立ちにもどこか懐かしい感覚がある。
今生は「死のために生を生きる」のではなくて

「死を知ることで、むしろいかに生きるか」を実践していくんだろうな、と感じている。

実は、今回の人生ですでにもう何度も死んだような気になっていて、
今私がココにあるのは、オマケなんだという気になっている。
もうなんでもアリみたいな。
だからこそ、自分が真に喜ぶことだけをしていきたいと思う。

「真に自分が喜ぶこと」とは魂が喜ぶこと。
そしてそれは、創造主のエネルギーに相応しく共鳴することなのだ。
どんな自分をも愛する、ノージャッジな愛。

そう思うと、3層たらしめている「身体」が奇跡の乗り物であるという感覚も腑に落ちてくる。

3層から見た身体ではなくて
7層からみた身体。
魂が宿ることによって、はじめていきいきと活動を始める驚くべき複雑な仕組みをもつ身体。
意識や気持ち、霊的なエネルギーとも密接に繋がっている身体。

興味は尽きない。